STAFF DETAIL.

柴田 将樹

Shibata Masaki

家づくりアドバイザー

柴田 将樹
  • 建築アドバイザー

PLOFILE

出 身
大阪府大阪市
家 族
独身
趣 味
サッカー・ラグビー観戦、歴史研究、健康研究
特 技
垂直跳び77cm、相撲
一 言
これまで近畿・北海道・九州とその土地土地の生活に根差し、教育業界でお子様とご家庭の幸せに寄り添ってきた経験を活かして、”健康で文化的な最大幸福”の住環境を子々孫々まで受け継いでいただけるよう誠心誠意努めてまいります。

MY LIFE

日本建築に触れていた幼少期

1981(昭和56)年9月9日、大阪府は大阪市に長男としてこの世に生を受けました。
父はごく一般的なサラリーマンで、専業主婦の母と5つ下の妹との4人家族。父方の祖父は既に亡く、同じ敷地には祖母と叔母が暮してしましたが、なんと江戸時代から脈々と修繕を繰り返してきた古屋敷だとのこと。
しかし、我が家はその”離れ”として増築したために、法律上の制限から異常に狭く、1つの寝室に4人が雑魚寝して子供部屋もなし。昭和の新建材で建てた家は居心地が今一つで、朝起きてはすぐに祖母宅へ行き、今考えれば子供の舌にはあまりに無味な栄養食”はったい粉”を一緒に食べながら祖母の仕事を手伝う毎日。自然と”おばあちゃん子”となりました。昭和天皇が崩御され、故・小渕官房長官(当時)が「平成」を掲げたシーンを祖母とただじっと眺めていたのが今でも脳裏に焼きついています。
これもまた江戸時代からそのまま残っていた蔵の中でよく読書やかくれんぼをしたものですが、今思えば、漆喰と無垢の木に囲まれた空間は夏涼しく、冬は寒さを凌ぎやすく、埃も少なく、居心地が良かったのでしょう。

教育業に携わり続けた半生

祖母の勧めるままに遠方の寺院内幼稚園に預けられ、そこから小学校受験をしたために、一度も地元の学校に通った経験がありません。朝は通勤通学ラッシュに揉まれ、夕方は通塾途中で母方の祖父母宅に寄って母がつくる夕食をつまみ、塾帰りには大阪の地下街”ダンジョン”で友人と鬼ごっこをしてから日が変わる寸前に帰宅。丑三つ時まで宿題をした上で誰よりも早く起きる、戦場のような日々を過ごしました。ここで、慣れた道なら歩きながら寝られる技を身に着けてしまいます(良い子のみんなはマネしないでね!)。
1995(平成7)年1月17日5時46分、阪神・淡路大震災に見舞われましたが、5時近くまで宿題をしていたためにそのまま眠りこけてしまい、父が男1人で寝室のタンスを支えて家族を守った話を後から聞いて尊敬の念を強くしたものです。今の私は父のように一家の大黒柱たりえるだろうか、という自戒と後悔を常に抱いて日々を過ごしています。

部活動は小:囲碁将棋・ソフトテニス、中:野球(サード・レフト)、高:バレーボール(センター=ミドルブロッカー)、大:サッカーサークルと、一通り好きなものをかじりました。その経験が、大阪→北海道→九州→関東と全国を気ままに移住しながら、その土地土地に馴染む礎となったのかもしれません。友人からは「平成の寅さん」と呼ばれています(笑)
大学は「地元から最も離れた所へ行ってみよう」という思いつきで北海道へ。しかし、人生初めての手術入院の上に、そこから1年前後のうちにお世話になった3人の祖父母が次々と他界。葬儀場で一晩寝ずに仏様を見守る役割は、いずれも”おじいちゃん・おばあちゃん子”だった私が務めました。寂しい想いをさせたのだろうな、との後悔を噛みしめながら夜が明けるまで泣き明かしたものです。

北海道での大学時代に塾講師のアルバイトをしたことで人生の転機を迎えます。北海道最大手でありながら主力は大学生というスタイルだったため、教材も自ら作りつつ、リーダー→科目編集委員→主任→総主任と役職が上がるシステムに乗せられ、教師75人を束ねる立場に。講習時は3日完全徹夜も珍しくなく、立って授業しながら眠りこけてしまったのに、口はちゃんと説明を続けられるという技を身に着けてしまいます。
就職も自然と塾講師の道へ進むことになりましたが、北へ行ったら次は南だと、一気に九州へと反転。三十路を超えてようやく大阪の親元へと戻ることになるのですが、九州の塾では在籍期間の半分以上で灘高校合格者数日本一を、大阪の塾でも在籍期間のちょうど半分で灘高日本一を獲得するなど、貴重な体験を得られました。

柴田 将樹

健康への興味・住医学への転身

実は、この段階までは建築関係に興味を持ったことはほとんどありません。大学受験前後に父が実家を大手ハウスメーカーで二世帯住宅に建て替えた際、歴史好きが高じて風水と家相をかじったくらいでしょうか。きっかけは、新築や一人暮らしに移行してから悪化したアトピー性皮膚炎・花粉症・慢性鼻炎などのアレルギー症状を根治しようと一念発起したことです。
片っ端から医学薬学の書籍を読み漁る中で、薬という名の毒をあおり、塗りたくることの危険に行き当たります。まずは信頼のできる医院を探し、それまで使っていたステロイド系の薬はもちろん、手洗い・入浴のたびに全身に塗っていた保湿クリームもきっぱりやめ、化学物質に汚染された飲食品・洗剤を改めました。始めの数ヶ月はそれまでのリバウンドで全身が焼けただれたような好転反応に苦しみましたが、1~2年で全盛期の1割程度にまで沈静化します。それ以来、できるだけ薬と医者と化学物質を遠ざける生活に切り替えてしまえば、医療費は微々たるものに抑えられ、スーパーやコンビニで買う商品も限られ、優柔不断な私にとってはとても気軽で快適な生活に生まれ変わりました。

そうこうする内に最後のラスボスとして辿り着いたのが住環境の大切さです。化学物質による汚染と湿気によるカビ、静電気による埃、電磁波による障害、地域の気候と調和しない不快…といった害毒にまみれた昭和以降の日本建築界。それは、世界最古の木造建築を有する日本古来の技術に唾棄し、世界の住環境学からは何十年も周回遅れを重ねる魑魅魍魎の世界でした。徹底的に調べあげた結果、日本の伝統技術に根差し、最新の住環境学にも精通していると確信が持てたのは、住医学研究会の「0(ゼロ)宣言の家」ただ一つだったわけです。
塾講師として理科・社会を教えてきた知識と感覚のおかげで、あらゆる業界が現代”科学”の迷走とそれに翻弄される人間”社会”の闇に覆われているものだと気づけたと言っては手前味噌すぎるでしょうか。せっかく人生を切り開く精神と能力を手に入れた生徒たちが、この毒された社会を回す歯車に成り果てるのは口惜しいという憤りが募りました。
お家造りは一生ものです。その中でお施主様は自然とこれまでとこれからの人生について熟慮され、ご家族の幸福と安心を求められ、またそれが子々孫々へと受け継がれてゆくきっかけとなるべきものでしょう。それを一緒に支え、共に学んでいくことこそ、次に進むべき”教育”の道ではないかと思い当たります。全くの門外漢ではありましたが、”浅く広い教育”から”狭く深い教育”へと舵を取るべきだと考えました。
そこで、一念発起して住医学研究会へと飛び込み、その中でも最も真摯に、丁寧に、熱心に取り組んでいる無添加計画を選びました。

決意

柴田 将樹

これまで教育業で培ってきた丁寧で噛みくだいた説明を皆様の心に届けられるよう心掛け、ご家族の悩みと人生に寄り添い、幸せと安心を支え、それが子々孫々にまで脈々と受け継がれるよう、誠心誠意努めてまいります。