STAFF DETAIL.

宗像 康成

Munakata Yasunari

取締役 本店店長

宗像 康成
  • 役 員
  • 建築アドバイザー

PLOFILE

保有資格
住宅ローンアドバイザー
出 身
埼玉県
家 族
奥さんと娘1人と愛犬
趣 味
スノーボード、野球、フットサル
特 技
野球のノック
一 言
皆さんと一緒に考え、笑い、勉強し、そこに住む家族みんなが微笑み安らぐ・・・
そんな家造りのサポートするため、常に全力投球することを誓います!

MY LIFE

宗像 康成

1976年(昭和51年)5月28日に、県営団地に住むごく普通の家庭の次男として誕生。
家族は冷蔵庫やテレビなどの家電部品工場に勤める父と、専業主婦の母と三つ上の兄との四人家族。
当時世の中では、テレビ番組の大橋巨泉「クイズダービー」や黒柳徹子「徹子の部屋」などが始まり、あのアップル社も創立。
幼い頃の私は、気管支炎喘息で一晩中苦しい思いをした事も多々有り、そんな私を見て父親は、運動をさせて体力をつけさせようと、硬式野球に小学校1年生から入団させ、そのお陰で気管支炎喘息の症状が緩和される。

硬式野球は、小学校では全国大会ベスト8。
中学校では関東大会優勝、高校も硬式野球部に入りましたが、私をスカウトしてくれた監督が急に辞め、新しい監督には好かれる事が無く試合に出場する機会もあたえてもらえず、私の夏の高校野球はここで終了した。
しかしその時の仲間とは、全てが良い思い出で辛い思い出も全て今となっては笑話である。

社会人に成り、NTTの子会社の電話業社へ入社させて頂き、当時は携帯電話と言うより移動電話と言われている時代で、高級車に付いている電話や肩から掛ける電話の時代。
時代と共に仕事が増えてPHSのアンテナ工事や携帯基地局の工事やアクアラインの川崎から海ほたるの間の地下部分でも携帯が使える為の工事など行う。
その中でも私は若手のリーダーとして抜擢され、23歳の時には光ファイバーの工事を県内全てで担当する様になり、日韓ワールドカップでは、埼玉スタジアムのメディアサポートとして、ネット環境の工事を全て行い試合当日はバックヤードで観戦した事も良い思い出である。

宗像 康成

プライベートでは、19歳の頃からお付合いをしてきた彼女がおり、10年の付き合いを得て結婚。
私が30歳の時に子供が産まれる(小柄でとても可愛い女の子でした)。
同時に私は家族の為に家を持ちたいと考え、不動産屋や建売業者へ足を運ぶ。
しかしどれも納得行くにはほど遠い物ばかりだったこともあり、注文住宅に興味を持ちはじめる。
注文住宅とはいえ、デザインや設備にばかり目がいってしまいがちになりながら、ついに完成。
結果、入居して1年で娘に異変が現れた。
私と同じ気管支炎喘息より重い肺炎にかかってしまい、体力の無い幼い子供にとっては苦痛であろう一週間の入院を、二年間で3度も繰り返した。
私は娘の為に何か出来ないかと色々と調べている時に、子供を育てる住居にも問題がある事に気が付き、そして工業化製品で囲まれた家が普通では無い事を初めて知る。
「苦労して手に入れた夢のマイホームなのに・・・」と後悔していた時、無添加計画のホームページを見て衝撃を受けた。

その頃、時代と共に電話工事が減り、周りの会社もどんどん倒産して行く中、
私の会社は吸収合併を繰り返して、社長も変わりながら会社が存続している状態。
このころから私は会社のビジョンが見えずに、会社と何度も話し合いをする日々を送る。
気付いた時には、周りの後輩100人以上が同じような不満と不安をいだいていることを知る。
このままではいけない!と思い、社長に現場の声を打ち明けるが、
NTTから天下って来た社長にその声は届かず、うやむやのまま終わるという最悪な結果に。

私は、この会社で幸せになれるとは思えず退社を決意。

宗像 康成

次の仕事を探す時に考えた、
「もっと世の中に良い物を残して、笑顔で親友に薦められる仕事がしたい。
自分と同じ失敗をして欲しく無い。未来の子供達へ本物の住宅を残したい!」と思い、無添加計画に入社。
他業種から転職で建築に関して無知な私に、先輩方は根気強く建物の事やローンの事など教えてくれ、
今もまだ学び続ける毎日ではあるが、充実した日々を送ることができている。
娘も成長すると共に体調も良くなってきたが、季節の変わり目には体調を崩す事もあるので、
近いうちに子供部屋だけでも漆喰を塗ろうと計画中である。

過去の自分が起こしてしまった家造りの失敗談を活かし、
資金計画の大切さ、自然素材の大切さを一人でも多くのお客様の心に響く様に伝え続ける事。
そして、クアトロ断熱や0宣言を知らない人は居ないと言う所まで広めて行く。
それが私の目標です。